明日で阪神淡路大震災から15年になります

ついさっきまで、関西テレビでやっていたドキュメンタリードラマ「土曜プレミアム 阪神・淡路大震災から15年 神戸新聞の7日間 命と向き合った被災記者たちの闘い」を見ていました。

ドラマを見ながら、当時の事を思い起こしていました。

震災当日の前晩。友人たちとの飲み会があり、私は山科区の友人宅に泊まり込んだんです。そして明け方に、夢ともうつつともつかない状態で、不思議な夢を見ました。

友人宅のその部屋には、壁掛け時計があって、カチコチ音を立てていたんですが(これは現実にあった時計です)コタツに潜り込んでその時計を見ると、振り子が異常に大きいんですね。(これは現実ではなく、本物の時計には、振り子なんてありませんでした。)

なんか大きいなあと思って見ていると、ふと気が付くと、振り子の先端のおもりが、斧になっているのです。そして、あれっ?と思って良く見ると、振り子の腕は金属の鎖になっていました。ええぇ??っと思って立ち上がろうとしたのですが、まったく身動きが取れません。

うわぁぁっっ!っと思っていると、いつの間にかその振り子の斧が、自分の真上に来ています。左右にカチカチと音を立てながら、ゆっくりと振れています。さらに、一度横切るごとに、鎖の目一つ分、下に下がってきます。斧が左右に横切っている位置の真下は、私の首でした。

死ぬー!!助けてー!と思うんですが、声が出ません。そして、もうダメだと思った時、パッと目が覚めて飛び起きました。

ハッと気が付くと、まだあのカチカチという音が聞こえています。うわっと思ってそっちを見ると、友人宅の四角い壁掛け時計(振り子のないクオーツ時計)が普通に時を刻んでいる音でした。

ふーっ夢だったかぁ…と思った次の瞬間、「ゴゴゴゴゴグラグラグラ」という感じで、かなり大きな地震が起きたんです。

これだけ大きな地震なら、すぐにテレビで速報が出るだろうとつけてみると、しばらくして、地震があったというニュースがありました。大阪、京都、滋賀あたりからの中継映像で、その時点震度分布から言っても、震源は京都の南部かなあと思いました。

何といっても、その時点では神戸からの情報は全く出なかったのと、震源地の情報も今のように即座に出なかったこともあって、あちらにはほとんど被害がないと思ったからです。

まだ早朝だったのですが、すぐに友人宅を出て、自分のアパートに帰りました。部屋の中では、小さな本棚が倒れていましたが、ほとんど被害はありませんでした。

友人宅を出て、うちについてテレビをつけたのは、友人宅でテレビを見た一時間後ぐらいだったと思いますが、その間に神戸の悲惨な状況がヘリコプターからの映像として届いていました。あっけにとられたのを覚えています。

翌日だったか翌々日だったか、食料品とコールマンのキャンプ用携帯コンロを背負って、西宮と芦屋の友人のうちに向かいました。その時点では、阪神電車が尼崎ぐらいまで運行していたんだったかだと思います。そこから先は歩いて行ったのを覚えています。

途中、おびただしい数の倒壊家屋、時々漂ってくるガスの匂い、遠くで立ち上がる煙…。言いようのない気持ちを感じたのを覚えています。

その後何度か、京都市ユースサービス協会のボランティアの一員として、避難所にお手伝いに行きました。そこでお聞きした被災体験。グランドピアノの足が跳ね上がって、低いテーブルの上に載ったとか、古いとても重い何十キロとある電子レンジが、台所から一旦廊下に転がり出て、となりの部屋に転がり入ったとか、想像を超えるお話でした。

あの時まで、関西ではあまり地震はないというようなことになっていました。生まれ育った静岡県では、学校でもしょっちゅう避難訓練をしていましたし、椅子には防災ずきんがつきものという生活をして来ていたので、京都にきてそういうものは知らないという友人たちに知り合って、とてもびっくりしたわけですね。正直、あの時の関西に、地震に対する備えなんて、なかったと言っても過言ではないと思います。

でも、今は違います。あの地震を教訓に、さまざまな制度が作られました。京都市では、わずか2000円の自己負担で耐震診断士を派遣してくれる制度がありますし、耐震改修に対する助成制度や特別融資制度もできました。

今なら、自分さえ一念発起すれば、地震への備えを準備できます。神戸の震災後、西日本は地震の活動期に入ったといいます。あの悲劇を繰り返さないためにも、耐震に対する備えを、どうかみなさん、お願いいたします。

決して、忘れてはならない15年だと思います。

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